大つごもり(1)

       (上)



 井戸は車にて綱の長さ十二ひろ、勝手は北向きにて師走しはすの空のから風ひゆう/\と吹ぬきの寒さ、おゝ堪えがたとかまどの前に火なぶりの一分は一時にのびて、割木わりきほどの事も大臺おほだいにして叱りとばさるゝ婢女はしたの身つらや、はじめ受宿うけやど老媼おばさまが言葉には御子樣がたは男女なんによ六人、なれども常住内にお出あそばすは御總領と末お二人、少し御新造ごしんぞは機嫌かいなれど、目色顏色呑みこんで仕舞へば大した事もなく、結句おだてに乘るたちなれば、御前の出樣一つで半襟半がけ前垂の紐にも事は缺くまじ、御身代は町内第一にて、その代りしはき事も二とは下らねど、よき事には大旦那が甘い方ゆゑ、少しのほまちは無き事も有るまじ、厭やに成つたら私のとこまで端書一枚、こまかき事は入らず、他所よその口を探せとならば足は惜しまじ、何れ奉公の祕傳は裏表と言ふて聞かされて、さても恐ろしき事を言ふ人と思へど、何も我が心一つで又この人のお世話には成るまじ、勤め大事に骨さへ折らば御氣に入らぬ事も無き筈と定めて、かゝる鬼のしゆうをも持つぞかし、目見えの濟みて三日の後、七歳になる孃さま踊りのさらひに午後よりとある、其支度は朝湯にみがき上げてと霜氷る曉、あたゝかき寢床の中より御新造灰吹きをたゝきて、これ/\と、此詞これが目覺しの時計より胸にひゞきて、三言とは呼ばれもせず帶より先に襷がけの甲斐/\しく、井戸端に出れば月かげ流しに殘りて、はだへを刺すやうな風の寒さに夢を忘れぬ、風呂は据風呂にて大きからねど、二つの手桶に溢るゝほど汲みて、十三は入れねば成らず、大汗に成りて運びけるうち、輪寶りんぼうのすがりしゆがの水ばき下駄、前鼻緒のゆる/\に成りて、指を浮かさねば他愛の無きやう成し、その下駄にて重き物を持ちたれば足もと覺束なくて流し元の氷にすべり、あれと言ふ間もなく横にころべば井戸がはにて向ふずねしたゝかに打ちて、可愛や雪はづかしきはだに紫の生々しくなりぬ、手桶をも其處に投出して一つは滿足成しが一つは底ぬけに成りけり、此桶これあたひなにほどか知らねど、身代これが爲につぶれるかの樣に御新造の額際に青筋おそろしく、朝飯のお給仕より睨まれて、其日一日物も仰せられず、一日おいてよりは箸の上げ下しに、此家このやの品は無代たゞでは出來ぬ、主の物とて粗末に思ふたら罰が當るぞえと明け暮れの談義、來る人毎に告げられて若き心には恥かしく、其後は物ごとに念を入れて、遂ひに麁想そさうをせぬやうに成りぬ、世間に下女つかふ人も多けれど、山村ほど下女の替る家は有るまじ、月に二人は平常つねの事、三日四日に歸りしもあれば一夜居て逃出しもあらん、開闢かいびやく以來を尋ねたらば折る指に彼の内儀さまが袖口おもはるゝ、思へばお峰は辛棒もの、あれに酷く當たらば天罰たちどころに、此後は東京廣しといへども、山村の下女に成る物はあるまじ、感心なもの、美事の心がけと賞めるもあれば、第一容貌きりやうが申分なしだと、男は直きにこれを言ひけり。

 秋より只一人の伯父が煩ひて、商賣の八百や店もいつとなく閉ぢて、同じ町ながら裏屋住居に成しよしは聞けど、六づかしき主を持つ身の給金を先きに貰へば此身は賣りたるも同じ事、見舞にと言ふ事も成らねば心ならねど、お使ひ先の一寸の間とても時計を目當にして幾足幾町と其しらべの苦るしさ、馳せ拔けても、とは思へど惡事千里といへば折角の辛棒を水泡むだにして、お暇ともならば彌々いよ/\病人の伯父に心配をかけ、痩世帶に一日の厄介も氣の毒なり、其内にはと手紙ばかりを遣りて、身は此處に心ならずも日を送りける。師走の月は世間一躰物せわしき中を、こと更にらみて綾羅きらをかざり、一昨日出そろひしと聞く某の芝居、狂言も折から面白き新物の、これを見のがしてはと娘共の騷ぐに、見物は十五日、珍らしく家内中うちゞうとの觸れに成けり、此お供を嬉しがるは平常つねのこと、父母なき後は唯一人の大切な人が、病ひの床に見舞ふ事もせで、物見遊山に歩くべき身ならず、御機嫌に違ひたらば夫れまでとして遊びの代りのお暇を願ひしに流石は日頃の勤めぶりもあり、一日すぎての次の日、早く行きて早く歸れと、さりとは氣まゝの仰せに有難うぞんじますと言ひしは覺えで、頓ては車の上に小石川はまだかまだかともどかしがりぬ。

 初音町はつねちやうといへば床しけれど、世をうぐひすの貧乏町ぞかし、正直安兵衞とて神は此頭に宿り給ふべき大藥罐の額ぎはぴか/\として、これを目印に田町より菊坂あたりへかけて、茄子なすび大根の御用をもつとめける、薄元手を折かへすなれば、折からの安うてかさのある物より外はさをなき舟に乘合の胡瓜、つとに松茸の初物などは持たで、八百安が物は何時も帳面につけた樣なと笑はるれど、愛顧ひいきは有がたきもの、曲りなりにも親子三人の口をぬらして、三之助とて八歳やつになるを五厘學校に通はするほどの義務つとめもしけれど、世の秋つらし九月の末、俄かに風が身にしむといふ朝、神田に買出して荷を我が家までかつぎ入れると其まゝ、發熱につゞいて骨病みの出しやら、三月ごしの今日まで商ひは更なる事、段々に喰べへらして天秤まで賣る仕義になれば、表店おもてだな活計くらしたちがたく、月五十錢の裏屋に人目の恥を厭ふべき身ならず、又時節が有らばとて引越しも無慘や車に乘するは病人ばかり、片手に足らぬ荷をからげて、同じ町の隅へと潜みぬ。お峰は車より下りて※(「研のつくり」、第3水準1-84-17)そこ此處こゝと尋ぬるうち、凧紙風船などを軒につるして、子供を集めたる駄菓子やの門に、もし三之助の交じりてかと覗けど、影も見えぬに落膽がつかりして思はず往來ゆききを見れば、我が居るよりは向ひのがはを痩ぎすの子供が藥瓶もちて行く後姿、三之助よりは丈も高く餘り痩せたる子と思へど、樣子の似たるにつか/\と驅け寄りて顏をのぞけば、やあ姉さん、あれ三ちやんで有つたか、さても好い處でと伴なはれて行くに、酒やと芋やの奧深く、溝板がた/\と薄くらき裏に入れば、三之助は先へ驅けて、とゝさん、かゝさん、姉さんを連れて歸つたと門口より呼び立てぬ。

 何お峰が來たかと安兵衞が起上れば、女房つまは内職の仕立物に餘念なかりし手をやめて、まあ/\是れは珍らしいと手を取らぬばかりに喜ばれ、見れば六疊一間に一間の戸棚只一つ、箪笥長持はもとより有るべき家ならねど、見し長火鉢のかげも無く、今戸燒の四角なるを同じなりの箱に入れて、これがそも/\此家の道具らしき物、聞けば米櫃も無きよし、さりとは悲しき成ゆき、師走の空に芝居みる人も有るをとお峰はまづ涙ぐまれて、まづ/\風の寒きに寢てお出なされませ、と堅燒に似し薄蒲團を伯父の肩に着せて、さぞさぞ澤山たんとの御苦勞なさりましたろ、伯母樣も何處やら痩せが見えまする、心配のあまり煩ふて下さりますな、夫でも日増しにい方で御座んすか、手紙で樣子は聞けど見ねば氣にかゝりて、今日のお暇を待ちに待つて漸との事、何家などは何うでも宜ござります、伯父樣御全快にならば表店おもてに出るも譯なき事なれば、一日も早く快く成つて下され、伯父樣に何ぞと存じたれど、道は遠し心は急く、車夫くるまやの足が何時より遲いやうに思はれて、御好物の飴屋が軒も見はぐりました、此金これは少々なれど私が小遣の殘り、麹町の御親類よりお客の有し時、その御隱居さま寸白すばくのお起りなされてお苦しみの有しに、夜を徹してお腰をもみたれば、前垂でも買へとて下された、それや、これや、お家は堅けれど他處よそよりのお方が贔屓になされて、伯父さま喜んで下され、勤めにくゝも御座んせぬ、此巾着も半襟もみな頂き物、襟は質素ぢみなれば伯母さま懸けて下され、巾着は少しなりを換へて三之助がお辨當の袋に丁度宜いやら、夫れでも學校へは行きますか、お清書が有らば姉にも見せてと夫れから夫れへ言ふ事長し。七歳のとしに父親得意場の藏普請に、足場を昇りて中ぬりの泥鏝こてを持ちながら、下なる奴に物いひつけんと振向く途端、暦に黒ぼしの佛滅とでも言ふ日で有しか、年來馴れたる足場をあやまりて、落たるも落たるも下は敷石に模樣がへの處ありて、掘りおこして積みたてたる切角に頭腦したゝか打ちつけたれば甲斐なし、哀れ四十二の前厄と人々後に恐ろしがりぬ、母は安兵衞が同胞きやうだいなれば此處に引取られて、これも二年の後はやり風俄かに重く成りて亡せたれば、後は安兵衞夫婦を親として、十八の今日まで恩はいふに及ばず、姉さんと呼ばるれば三之助は弟のやうに可愛く、此處へ此處へと呼んで背を撫で顏を覗いて、さぞ父さんが病氣で淋しく愁らかろ、お正月も直きに來れば姉が何ぞ買つて上げますぞえ、母さんに無理をいふて困らせては成りませぬと教ゆれば、困らせる處か、お峰聞いて呉れ、歳は八つなれど身躰も大きし力もある、わしが寐てからは稼ぎなしの費用いりめは重なる、四苦八苦見かねたやら、表の鹽物やが野郎と一處に、しゞみを買ひ出しては足の及ぶだけ擔ぎ廻り、野郎が八錢うれば十錢の商ひは必らずある、一つは天道さまが奴の孝行を見徹してか、兎なり角なり藥代は三が働き、お峰ほめて遣つて呉れとて、父は蒲團をかぶりて涙に聲をしぼりぬ。學校は好きにも好きにも遂ひに世話をやかしたる事なく、朝めし喰べると馳け出して三時の退校ひけに道草のいたづらした事なく、自慢では無けれど先生さまにも褒め物の子を、貧乏なればこそ蜆を擔がせて、此寒空に小さな足に草鞋をはかせる親心、察して下されとて伯母も涙なり。お峰は三之助を抱きしめて、さてもさても世間に無類の孝行、大がらとても八歳やつは八歳、天秤肩にして痛みはせぬか、足に草鞋くひは出來ぬかや、堪忍して下され、今日よりは私も家に歸りて伯父樣の介抱活計くらしの助けもしまする、知らぬ事とて今朝までも釣瓶の繩の氷をらがつたは勿躰ない、學校ざかりの年に蜆を擔がせて姉が長い着物きて居らりようか、伯父さま暇を取つて下され、私は最早奉公はよしまするとて取亂して泣きぬ。三之助はをとなしく、ほろりほろりと涙のこぼれるを、見せじとうつ向きたる肩のあたり、針目あらはにきぬれて、此肩これに擔ぐか見る目もらし、安兵衞はお峰が暇を取らんと言ふに夫れは以ての外、志しは嬉しけれど歸りてからが女の働き、夫れのみか御主人へは給金の前借もあり、それッ、と言ふて歸られる物では無し、初奉公うひぼうこうが肝腎、辛棒がならで戻つたと思はれても成らねば、お主大事に勤めて呉れ、我が病も長くは有るまじ、少しよくば氣の張弓、引つゞいて商ひもなる道理、あゝ今半月の今歳が過れば新年はるは好き事も來たるべし、何事も辛棒/\、三之助も辛棒して呉れ、お峰も辛棒して呉れとて涙を納めぬ。珍らしき客に馳走は出來ねど好物の今川燒、里芋の煮ころがしなど、澤山たべろよと言ふ言葉が嬉し、苦勞はかけまじと思へど見す見す大晦日に迫りたる家の難義、胸につかへの病は癪にあらねどそも/\床に就きたる時、田町の高利かしより三月しばりとて十圓かりし、一圓五拾錢は天利とて手に入りしは八圓半、九月の末よりなれば此月は何うでも約束の期限なれど、此中にて何となるべきぞ、額を合せて談合の妻は人仕事に指先より血を出して日に拾錢の稼ぎも成らず、三之助に聞かするとも甲斐なし、お峰が主は白金しろかね臺町だいまちに貸長屋の百軒も持ちて、あがり物ばかりに常綺羅じやうきら美々しく、我れ一度お峰への用事ありて門まで行きしが、千兩にては出來まじき土藏の普請、羨やましき富貴ふうきと見たりし、その主人に一年の馴染、氣に入りの奉公人が少々の無心を聞かぬとは申されまじ、此月末に書かへを泣きつきて、をどりの一兩二分を此處に拂へば又三月の延期のべにはなる、斯くいはゞ慾に似たれど、大道餅買ふてなり三ヶ日の雜煮に箸を持せずば出世前の三之助に親のある甲斐もなし、晦日までに金二兩、言ひにくゝ共この才覺たのみ度よしを言ひ出しけるに、お峰しばらく思案して、よろしう御座んす慥かに受合ひました、むづかしくはお給金の前借にしてなり願ひましよ、見る目と家内うちとは違ひて何處にも金錢の埓は明きにくけれど、多くでは無し夫れだけで此處の始末がつくなれば、理由わけを聞いて厭やは仰せらるまじ、夫れにつけても首尾そこなうては成らねば、今日は私は歸ります、又の宿下りは春永、その頃には皆々うち寄つて笑ひたきもの、とて此金これを受合ける。金は何としておこす、三之助を貰ひにやろかとあれば、ほんに夫れで御座んす、常日つねさへあるに大晦日といふては私の身に隙はあるまじ、道の遠きに可憐さうなれど、三ちやんを頼みます、晝前のうちに必らず必らず支度はして置まするとて、首尾よく受合ひてお峰は歸りぬ。

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底本:「日本現代文學全集 10 樋口一葉集」講談社
   1962(昭和37)年11月19日第1刷発行
   1969(昭和44)年10月1日第5刷発行
※底本では送りがな、漢字の使い方に不統一がありますが、底本通りにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:青空文庫
校正:米田進、小林繁雄
1997年10月15日公開
2004年3月18日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。

  • 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。

  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。

  • 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。