(三)
番町の旦那樣お出と聞くより雪や兄樣がお見舞に來て下されたと言へど、顏を横にして振向ふともせぬ無禮を、常ならば怒りもすべき事なれど、ああ、捨てゝ置いて下さい、氣に逆らつてもならぬからとて義母が手づから與へられし皮蒲團を貰ひて、枕もとを少し遠ざかり、吹く風を背にして柱の際に默然として居る父に向ひ、靜に一つ二つ詞を交へぬ。
番町の旦那といふは口數少なき人と見えて、時たま思ひ出したやうにはた/\と團扇づかひするか、卷煙草の灰を拂つては又火をつけて手に持て居る位なもの、絶えず尻目に雪子の方を眺めて困つたものですなと言ふ計、あゝ此樣な事と知りましたら早くに方法も有つたのでせうが今に成つては駟馬も及ばずです、植村も可愛想な事でした、とて下を向いて歎息の聲を洩らすに、どうも何とも、私は悉皆世上の事に疎しな、母もあの通りの何であるので、三方四方埓も無い事に成つてな、第一は此娘の氣が狹いからではあるが、否植村も氣が狹いからで、何うも此樣な事になつて仕舞つたで、私等二人が實に其方に合はせる顏も無いやうな仕義でな、然し雪をも可愛想と思つて遣つて呉れ、此樣な身に成つても其方への義理ばかり思つて情ない事を言ひ出し居る、多少教育も授けてあるに狂氣するといふは如何にも恥かしい事で、此方から行くと家の恥辱にも成る實に憎むべき奴ではあるが、情實を汲んでな、これほどまで操といふものを取止めて置いただけ憐んで遣つて呉れ、愚鈍ではあるが子供の時から是れといふ不出來しも無かつたを思ふと何か殘念の樣にもあつて、誠の親馬鹿といふので有らうが平癒らぬほどならば死ねとまでも諦がつきかねる物で、餘り昨今忌はしい事を言はれると死期が近よつたかと取越し苦勞をやつてな、大塚の家には何か迎ひに來る物が有るなどゝ騷ぎをやるにつけて母が詰らぬ易者などにでも見て貰つたか、愚な話しではあるが一月のうちに生命が危ふいとか言つたさうな、聞いて見ると餘り心よくも無いに當人も頻と嫌がる樣子なり、ま、引移りをするが宜からうとて此處を探させては來たが、いや何うも永持はあるまいと思はれる、殆毎日死ぬ死ぬと言て見る通り人間らしい色艶もなし、食事も丁度一週間ばかり一粒も口へ入れる事が無いに、夫ればかりでも身體の疲勞が甚しからうと思はれるので種々に異見も言ふが、何うも病ひの故であらうか兎角に誰れの言ふ事も用ひぬには困りはてる、醫者は例の安田が來るので斯う素人まかせでは我まゝ計つのつて宜く有るまいと思はれる、私の病院へ入れる事は不承知かと毎々聞かれるのであるが、夫れも何う有らうかと母などは頻にいやがるので私も二の足を蹈んで居る、無論病院へ行けば自宅と違つて窮屈ではあらうが、何分此頃飛出しが始まつて、私などは勿論太吉と倉と二人ぐらゐの力では到底引とめられぬ働きをやるからの、萬一井戸へでも懸られてはと思つて、無論蓋はして有るが徃來へ飛出されても難義至極なり、夫等を思ふと入院させやうとも思ふが何か不憫らしくて心一つには定めかねるて、其方に思ひ寄も有らば言つて見て呉れとてくる/\と剃たる頭を撫でゝ思案に能はぬ風情、はあ/\と聞居る人も詞は無くて諸共に溜息なり。
娘は先刻の涙に身を揉みしかば、さらでもの疲れ甚しく、なよなよと母の膝へ寄添ひしまゝ眠れば、お倉お倉と呼んで附添ひの女子と共に郡内の蒲團の上へ抱き上げて臥さするにはや正體も無く夢に入るやうなり、兄といへるは靜に膝行寄りてさしのぞくに、黒く多き髮の毛を最惜しげもなく引つめて、銀杏返しのこはれたるやうに折返し折返し髷形に疊みこみたるが、大方横に成りて狼藉の姿なれども、幽靈のやうに細く白き手を二つ重ねて枕のもとに投出し、浴衣の胸少しあらはに成りて締めたる緋ぢりめんの帶あげの解けて帶より落かゝるも婀かしからで慘ましのさまなり。
枕に近く一脚の机を据ゑたるは、折ふし硯々と呼び、書物よむとて有し學校のまねびをなせば、心にまかせて紙いたづらせよとなり、兄といへるは何心なく積重ねたる反古紙を手に取りて見れば、怪しき書風に正體得しれぬ文字を書ちらして、是れが雪子の手跡かと情なきやうなる中に、鮮かに讀まれたるは村といふ字、郎といふ字、あゝ植村録郎、植村録郎、よむに得堪へずして無言にさし置きぬ。
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底本:講談社「日本現代文学全集 10 樋口一葉集」
1962(昭和37)年11月19日第1刷発行
1969(昭和44)年10月1日第5刷発行
入力:青空文庫
校正:米田進、小林繁雄
1997年10月15日公開
2004年3月19日修正
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